額縁に入れて飾ることのできるような大仰な序文を書くと、あとあと苦虫をかみつぶしたような顔で序文を書いた当時の自分をののしるはめになり、悪くすれば羞恥のあまり更新を滞らせることのつながる、というのは数々の三日坊主体験で学習済みの筆者です。
もともと過去の自分を振り返るのが苦手で、大体いつのことを思い出しても自分の浅はかな発言、恥ずべき行動、愚かしい思考ばかりが浮かび上がり、日記はつけても決して振り返らないという厄介な性質も持っています。しかし、友人と他愛のないおしゃべりをしていると、自分が表現しないままに忘れていっている事柄の多さに気づかされ、自分という人間が何を考えているのかを把握するという意味で、日々つらつらと考えている毒にも薬にもならぬ雑多なアレコレを何らかのかたちで残しておこうと思った次第なのです。
さて、それならなぜ日記帳ではいけないのか、ということですが、まあどうせ書くなら他人に見てもらえる可能性がある方が張り合いがあるとか、ブログをやったら読むよという親しい友人が(数少ないながら)いるとか、ふわふわした理由なのであります。
まず、このブログを読んでくれる人がいるとすれば、おそらくは前述した心優しい友人か暇をもてあそばしている知人ぐらいのものでしょうし、それだって片手に収まる程の数でしょう。あるいはゼロかもしれないし。しかし、自分のブログをどれだけの数の人が読んでいるかは、実際に自分で知ろうとしなければ知らなくてすむものであり、確認するまでは私のブログには100人の読者と0人の読者がいる世界が重なり合って存在しているわけです、私にとっては。
はて、こういうことを表現するのにいい言葉はないかな、と頭をひねったのですが、真っ先に出てくるのはシュレディンガーの猫。でも、シュレディンガーの猫って本来そういうことを表現するために使用された例えじゃないんじゃなかったっけと思いつつ、誤用も大勢ですれば意味の方が書き換わるのだから(煮詰まる、とかね)、という謎の開き直りをし、ズバリシュレディンガーの猫的読者ならぬセンスの欠片もない、しかしまあ意味はなんとなく伝わりそうな表現を編み出したわけです。
気取らぬブログにしようと自然体のままを意識して書いたみると、あまりの駄文で、これはこれで未来の自分が自分の行いを恥じながらブログを閉じるのでは、と思わなくもないですが、未来のことはわからぬのです。自分自身すらも震撼させる駄文っぷりに付き合ってくれるシュレディンガーの猫的読者のみなさんに思いを馳せつつ、今日はこの辺で…。