ヒツジの戯言

ミーハーなオタクです

PC買いました

薄給会社員なので、毎月毎月預金残高が目減りする足音に肝を冷やしていますが、ボーナスでPCを買いました。

薄給会社員というあまりに悲しいステータスから抜け出すために転職活動を決意したのがきっかけですが、今のところ進捗はなしです(ガハハ)。なんてったって最近人生そのものに意欲的に取り組む気になれず、本読んだりアイドルみたりSNSでインテリアについて考えたりとかしかしてないからです(ガハハ)。

この慢性化した無気力は、今年の初夏に伝えられた不本意な異動告知が原因だと思っていました。しかし、大人のやむを得ない事情(私の意思とは全く関係ない)で、結局異動の話が消え去っても、私のやる気はカムバックせず、今に至るわけです。うすうす気付いてたんですけど、たぶん私は飽きてるんですよね。人間関係がある程度構築されたコミュニティで、たまごっちのぷちぷちお店っち(DSのゲームです。調べたもう。)よろしく、ベルトコンベアにのせらてたタスクをできるだけはやく捌く。そんな日々にね。

もちろん転職活動はするのですが、ほったらかしになっていた今年の豊富のあれこれを叶えるために習慣を見直すのも良いなと思い、これを書いている次第です。

今年の抱負を少しでも達成できたら、ちょっとは自分のことを許せるかしら。

2021の抱負メモ

お風呂には基本的に何も持ち込まない派です。あらゆる日常から隔絶されてただひたすらにぼーっとするのが、私の1番好きな湯舟の楽しみ方です。

 

今日は1月1日なので、今年の抱負を考えながら湯舟につかりました。2021は「飄々と」をテーマにして、「好きなことをディグる」1年にしたいです。というか、します?(あくまで疑問形)

 

具体的なアクションに落とし込むと下記です。がんばれ自分。

・仕事をかわす(できるだけ定時で帰る)

・今年1年の研究テーマを決めて、知識をため込む(テーマはまだ決まっていない)

・日記をつける(アナログで日記をつけることに挫折し続けているので、このブログを日記帳に・・・する・・・)

・映画の感想を全部ここに移植する

・部屋の模様替えをする ★重要

 

何か月続くかなあ・・・がんばります。

原点回帰2020

社会人2年目になり、精神的につらいことばかりの2020でしたが、少ない読書量のわりにストライクゾーンをよく引き当てたという面ではラッキーな1年でした。

まだ1年終わってないけど、今年のまとめ。(ほぼメモ)

 

・『たったひとつの冴えたやり方』J・ティプトリー・ジュニア、浅倉久志訳(1987年/ハヤカワ文庫)

たったひとつの冴えたやり方を選べるような人間でありたい。いつだってね。

 

・『13・67』陳浩基、天野健太郎訳(2020年/文春文庫)

解説にある通り、1編1編は本格ミステリなのに、通しで読むと社会派ミステリの趣がある。構成の妙。読み応え抜群。香港を愛す。

 

・『朗読者』B・シュリンク松永美穂訳(2003年、新潮文庫

自由と尊厳の話。人によってこの作品のどこが刺さるか違いそうだけど、私にとっては自由と尊厳の話です。

 

・『さよならの言い方なんて知らない4』河野裕(2020年、新潮文庫nex

青春を描くために異能設定を生かすのが本当にうまいなあと。サクラダが好きで、本作も好き。

 

・『はい、チーズ』カート・ヴォネガット大森望訳(2014年、河出文庫

ついに出会いましたカート・ヴォネガット。皮肉まじりの大きな愛で心がぽかぽかする。

 

・『八本脚の蝶』二階堂奥歯(2020年、河出文庫

今年1番かもしれない。人間の純粋さの限界。こんな人が実際に生きていて、私たちに文章を残してくれる。生きていてよかったと思える。

 

今年はあと来年の抱負考えるだけかな。

身に積もる埃

 

部屋が散らかったままGWが空けた。めでたい10連休を終えたわたしの部屋は、リフレッシュなんてものからは程遠く、かといって遊び疲れたというものでもなく、ただくたびれた散らかった部屋だ。

 

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枕元のTV台ひとつとってもひどい。

 

おそらく半年ほど前から映らないテレビ(本当に映らないのか確認していない)。

頻繁に使うため定位置が定まらないティッシュ箱。

2ヶ月前の大掃除で使用してから、こちらも所在が定まらない紙ガムテープ。

毎日靴擦れと闘うわたしの悲痛な友である絆創膏は、どうしても手の届きやすい場所にほしい。

 

積み重なった本は感想をつけないと本棚にさせない(マイルール)のに、読んでから日が経ち過ぎて、何を書くのか迷う。

 

就職祝いにといただいたお金が入っていた包みは捨てるに捨てられず、しまうわけにもいかず。お年玉や祝い金の包みはいつも処置に困るのだけれど、これはどうするのが正しいのか。

 

3日前から2ヶ月ぶりに書いている日記はベッドから手の届く範囲に。

 

 

だらしない理由で積み重なった彼らは、わたしのどうしようもない怠惰さの象徴だ。

 

掃除しない部屋にうっすらと埃が積もるように、わたしの身には埃のレイヤーがかかっている。

わたしはわたしのそんな怠惰さを決して受け容れられない。かといって然るべきものを然るべきところに配置する気力もない。

外からどう見えようと、わたし自身にとってわたしは埃でくすんだ冴えない人生を送る人間だし、そんな自分をわたしは恥じて、まるで赤点のテストを机の引き出しの奥に急いで丸めてくしゃくしゃに詰め込むみたいに、必死に隠している。

 

努力もしないで自分を恥じて隠すことは、それ自体がとても恥ずかしい。わたしは自分はなんにも隠してなんていないと、素知らぬ顔で開けっぴろげに笑う。

 

でも、やっぱり1人になると散らかった部屋で掃除が進まず途方にくれるときのように、ただ埃が積もってくすんだ自分を眺めている。

 

 

次元五右衛門チェックシート ゆとりver.

 

普段はついつい小説にばかり手を伸ばしがちで、その他のジャンルって全然読まないんですが先日珍しくエッセイを読みました。

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三浦さんの作品って、「コイツは私じゃん!!!」と叫びたくなるくらい共感できる人物が登場したり、「ここでそんなことを言われたら誰でもときめく…」と思わず本を閉じて深呼吸してしまう台詞があったり、「うわ~私もこんな友達がほしいわ!」と思わされる理想像を体現したような友人関係が描かれていたり、とにかく″ツボ″にはまる要素が多いので、絶対この人の感性が好きなんだろうなと思って手に取ったのですが…、三浦さんが想像以上にオタクかつ腐女子で笑ってしまいました。


エッセイということで砕けた文体で書かれていることもあり、なんだかこの人私のクラスメイトかな?と錯覚しそうになるほどの「既視感」。もちろん、身の回りにこんなに日常をおもしろく切り取って共有できる文章力のある人はいないんですが。

 


収録されているものはどれもおもしろくてすぐ読み切ってしまったんですが、一番のお気に入りが「次元五右衛門チェックシート発動」というタイトルなのです。そう、記事のタイトルにお借りしている「次元五右衛門チェックシート」ならぬ文言は三浦しをんさんのエッセイに登場するのです。詳しくは是非本を読んでいただきたいのですが、次元五右衛門チェックシートとは、様々な作品における自分の推しを羅列し、好みを分析するために作られるシートなのです。


「私次元派?お前何派?」「私は断然五右衛門派!」みたいな会話はオタクであれば(あるいはオタクでなくとも)、誰もが繰り広げたことありますよね?あのどこにもいけない、なんの糧にもならない不毛な会話は、とにかく楽しい。しかも、ああいう会話はだいたい趣味の合わない友人とする方が楽しいんですよね。いくつかの作品で推しを発表しあえば相手の趣味がわかってきて、じゃあ「〇〇では△△が好きでしょ」などど当てっこしあう。当たるとなんかテンション上がるんですよね。


でも、この不毛な遊びは同じ作品に親しんでいることが前提条件となります。当然ですね。しかしながら、なかなか読んでいる作品が共通している友人を見つけるのって難しいと感じています。「じゃあ〇〇では誰が好き?」という質問をして「それは読んでないんだよね」と言われるときのさみしさといったら…。


ならば、我々の世代ならだれでもこれは知ってるだろ!という作品を羅列したチェックシートを作るべきでしょう。ゆとり世代だとどんな作品がそれに当たるのでしょうか。早速、友人と吟味し推敲してつくりあげなくては。

あなたも「次元五右衛門チェックシート ゆとりver.」、欲しくないですか?

 

 

 

シュレディンガーの猫的読者のみなさんにむけて

 

額縁に入れて飾ることのできるような大仰な序文を書くと、あとあと苦虫をかみつぶしたような顔で序文を書いた当時の自分をののしるはめになり、悪くすれば羞恥のあまり更新を滞らせることのつながる、というのは数々の三日坊主体験で学習済みの筆者です。

 

もともと過去の自分を振り返るのが苦手で、大体いつのことを思い出しても自分の浅はかな発言、恥ずべき行動、愚かしい思考ばかりが浮かび上がり、日記はつけても決して振り返らないという厄介な性質も持っています。しかし、友人と他愛のないおしゃべりをしていると、自分が表現しないままに忘れていっている事柄の多さに気づかされ、自分という人間が何を考えているのかを把握するという意味で、日々つらつらと考えている毒にも薬にもならぬ雑多なアレコレを何らかのかたちで残しておこうと思った次第なのです。

 

さて、それならなぜ日記帳ではいけないのか、ということですが、まあどうせ書くなら他人に見てもらえる可能性がある方が張り合いがあるとか、ブログをやったら読むよという親しい友人が(数少ないながら)いるとか、ふわふわした理由なのであります。

まず、このブログを読んでくれる人がいるとすれば、おそらくは前述した心優しい友人か暇をもてあそばしている知人ぐらいのものでしょうし、それだって片手に収まる程の数でしょう。あるいはゼロかもしれないし。しかし、自分のブログをどれだけの数の人が読んでいるかは、実際に自分で知ろうとしなければ知らなくてすむものであり、確認するまでは私のブログには100人の読者と0人の読者がいる世界が重なり合って存在しているわけです、私にとっては。

 

はて、こういうことを表現するのにいい言葉はないかな、と頭をひねったのですが、真っ先に出てくるのはシュレディンガーの猫。でも、シュレディンガーの猫って本来そういうことを表現するために使用された例えじゃないんじゃなかったっけと思いつつ、誤用も大勢ですれば意味の方が書き換わるのだから(煮詰まる、とかね)、という謎の開き直りをし、ズバリシュレディンガーの猫的読者ならぬセンスの欠片もない、しかしまあ意味はなんとなく伝わりそうな表現を編み出したわけです。

 

気取らぬブログにしようと自然体のままを意識して書いたみると、あまりの駄文で、これはこれで未来の自分が自分の行いを恥じながらブログを閉じるのでは、と思わなくもないですが、未来のことはわからぬのです。自分自身すらも震撼させる駄文っぷりに付き合ってくれるシュレディンガーの猫的読者のみなさんに思いを馳せつつ、今日はこの辺で…。